最近、AIを使った個人開発がずいぶん盛り上がっている。プログラミングの経験がなくても、AIに指示を出すだけでアプリを作り、サービスとして公開できるようになってきている。これからは、個人が1人でプロダクトを作り、それで食べていく時代になるという。そんな話を、以前にもどこかで聞いた気がした。

そう、10年ほど前のプロブロガーブームである。

ふと、あの頃のブロガーたちは今なにをしているのだろうと思った。2015年から2018年あたりのインターネットには、「プロブロガー」と呼ばれる人たちがたしかにいた。

「大学を辞めました」「会社を辞めました」「ブログで月100万円稼ぎました」。そんな報告が、Twitterのタイムラインを毎日のように賑わせていたのだ。「まだ東京で消耗してるの?」「好きなことで生きていく」。今となっては少々気恥ずかしい言葉たちだが、当時はそれなりに新鮮に響いた。

かくいう僕も、当時は就活を目前に控えた大学生だった。ありていに言えば、働きたくなかったのである。だから、そういう報告をタイムラインで見かけるたびに、律儀に読みふけっていた。エントリーシートを書くより、よほど熱心に。

会社に勤めなくても生きていける。パソコン1台あれば、場所も時間も選ばずに働ける。インターネットが個人を組織から解放してくれる、という期待が、あの頃の空気にはたしかに漂っていた。

あれから約10年。少し調べてみると、今でも活躍している人は存外多い。自己理解を事業にした人がいる。WordPressのテーマを開発している人もいれば、コンテンツ制作の会社を経営している人もいる。ブログで資産を築き、FIREしたという人までいる。もちろん、以前ほど名前を聞かなくなった人もいる。

興味深いのは、今も名前を聞く人たちの多くが、もはや「プロブロガー」ではないことだ。彼らはブログで自由を手に入れ、その自由を維持するために、ブログの外へ出ていった。

自由を求めて始めた仕事から、自由になる必要があったのである。

会社の外にあった、もう1つの会社

プロブロガーという生き方の魅力は、単にお金を稼げることではなかったと思われる。上司がいない。満員電車に揺られる必要もない。会社という組織に人生を管理されることへの、ささやかな反抗でもあったのだ。

ところが、ブログ収入で生活するようになると、別の問題が顔を出す。Googleの検索順位が下がれば収入が減る。アルゴリズムが変われば、積み上げた記事の価値が一夜にして変わってしまう。どれだけ努力しても、検索結果のどこに載るかを決めるのは自分ではない。

会社員時代は上司が評価を決めていた。独立したあとは、アルゴリズムが評価を決める。むろん両者は同じではない。Googleは雇用主ではないし、ブロガーには仕事を選ぶ自由もある。それでも、生活を左右する決定が手の届かないところで下されるという意味では、似た構造をしている。

上司の機嫌を気にしなくなった代わりに、検索順位を気にするようになる。給与明細を気にしなくなった代わりに、Google Analyticsを日に何度も開くようになる。さながら株価ボードに張り付くデイトレーダーである。

会社を辞めることと、誰にも依存せずに生きることは、まったく別の話だったのだ。

借りた土地に家を建てる

考えてみれば、インターネットの歴史はこの繰り返しなのかもしれない。ブログを書けば誰でもメディアを持てる。YouTubeに投稿すれば誰でも放送局になれる。かつては組織に属さなければできなかったことが、次々と個人に開放されてきた。紛れもなく技術の進歩だ。

ただし、その自由には1つ条件がある。プラットフォームの上で活動すること、である。YouTubeで活動するならYouTubeのルールに従い、Google検索から集客するならGoogleの評価基準に適応する。仕組みを借りる以上、それ自体は当然のことだ。

いわば、借りた土地に家を建てているのである。利用者は時間と労力をかけて、その土地の上に家を建てる。10万人のフォロワーがいても、投稿が10万人に届くとは限らない。何百本の動画を公開していても、次の動画が観られる保証はない。

自分で建てた家なのに、そこへ続く道を通すかどうかは地主が決める。どれほど立派な家を建てても、誰も訪ねてこなければ商売にはならない。もっとも、そもそも人が通る道を敷いたのも地主なのだから、話はそう単純ではない。土地を借りなければ、家を建てる場所すらなかった人も大勢いる。

しかも、土地が栄えるほど、そこへ移り住む人も増える。参入障壁が下がれば、それまで活動できなかった人にも機会が生まれる一方で、隣の区画には競争相手が次々と家を建てていく。誰でもできるようになるということは、誰でもやってくるということでもある。個人を自由にする技術が、その個人の希少性を少しずつ奪っていく。なかなかに皮肉な構造だ。

区画に家が次々と建っていくが、道を通る人は3人のまま変わらない様子のアニメーション

YouTuberも同じ道を歩いている

最近のYouTuberを見ていても、似たようなことを感じる。以前は、動画の広告収入で生活できること自体がニュースになった。好きなことを撮って、再生回数が伸びて、広告収入が入る。それだけで生きていける生き方に、多くの若者が憧れたものだ。

ところが今、人気YouTuberの中には、アパレルブランドを立ち上げたり、飲食店を経営したり、自分の商品を売ったりする人が増えている。YouTubeで名を上げた人が、YouTubeの外で事業を始める。どこかで見た光景である。ブログで名を上げた人がブログの外で商売を始めたのと、よく似た構図なのだ。

広告収入だけで十分に稼いでいる人もいるし、動画には文章とは違う強さもある。ただ、再生回数に収入の大半を預けるのは、それなりに危うい。新しいクリエイターが現れ、視聴者の好みが変わり、本人も歳を重ねる。そこで自分の商品を作り、自分の顧客と直接つながる。借りた土地とは別に、自分名義の土地と、自分で敷いた細い道を少しずつ持とうとするわけだ。

そして気づけば、会社員という生き方に縛られたくなかった人が、自分で会社を作り、従業員を雇っている。かつて抜け出したかったものを、今度は自分で拵えているのだ。経営者と従業員では立場も裁量も違うから、単純な矛盾ではない。それでも、自由を求めた先でより大きな責任を背負うことになるのだから、人生というのはなかなかに面白い。

地主の側に回るという発想

そんな流れと並行して、もう1つの生き方が注目されるようになった。FIREである。経済的に自立して、早々にリタイアする。やがてつみたてNISAや新NISAの話題もタイムラインを埋めるようになり、「とりあえずオルカン」「S&P500に積み立てておけ」という言葉を、ずいぶん見かけるようになった。

この波は、それまでとは少し毛色が違う。ブログもYouTubeも、好きなことを仕事にして自由になろうとする話だった。対してFIREは、そもそも働かなくても生きていける状態を目指す。好きなことで生きていく、から、好きなことをしなくても生きていける、へ。自由の置き場所が、いつの間にか仕事から資産へと移っていたのだ。

比喩に寄せて言えば、借りた土地に家を建てるのをやめて、地主の株を少しずつ買うという発想である。実際、S&P500にはGoogleの親会社もAppleも入っている。ブロガーやYouTuberを悩ませてきたプラットフォームの、株主の側に回るわけだ。筋はたしかに通っている。

もっとも、これで誰にも依存しなくなるわけではない。今度は市場に依存する。株価が下がれば資産は目減りするし、取り崩しの計画も相場次第で狂う。そもそも元手を作るには、どこかで働いて稼ぐ必要がある。依存の先が、プラットフォームから市場へ移っただけとも言える。

作る自由と、届ける自由

さて、話を冒頭のAI個人開発に戻したい。ブログが個人にメディアを与え、YouTubeが放送局を与えたように、AIは個人に開発チームのような能力を与えようとしている。何人も必要だった仕事が1人で回る。これは本当に大きな変化だと思う。

ただ、筋書きにはどうしても既視感がある。あの頃は、WordPressさえあれば誰でもメディアを作れると言われていた。今は、AIさえあれば誰でもアプリを作れると言われている。記事を大量に書けば収益が増えると期待された時代があり、アプリを大量に作ればどれかが当たると期待される時代が来た。

とはいえ、ブログとソフトウェアは同じではない。ソフトウェアは人の手間を肩代わりできるし、一度使い始めてもらえれば毎日の習慣にもなりうる。記事よりも、生活に深く入り込める可能性を持っているのだ。それでも、作れる人が増えることと、稼げる人が増えることは別の話である。誰でも作れるようになれば、少なくとも「作れる」というだけでは、以前ほどの価値を持たなくなる。ブログの開設や動画の編集が特別ではなくなったように、アプリを作れることもいずれ当たり前になるのだろう。

生産のコストが下がるほど、なにを作るのか、誰に届けるのかという問いが重くなる。家を建てるのは簡単になった。しかし、その家へ続く道は、あいかわらず他人が握っている。App Storeの検索順位も、SNSのアルゴリズムも、かつてのブロガーにとってのGoogle検索とそう変わらない位置にある。

実を言うと、僕も今はAIを使いながら個人でアプリを作っている。10年前はブログで自由に生きる人たちを眺めていた大学生が、今度は自分で似たような夢を見ているのだから、我ながらあまり進歩がない。ただ、当時と少し違うのは、作ること自体よりも、作ったものを使ってもらうことの難しさが、多少は解るようになったことだろうか。

そのうえ、AIにはブログやYouTubeとは違う点がもう1つある。作り手だけでなく、使い手の行動まで変えつつあるのだ。すでに、検索結果からWebサイトを訪れず、AIの回答を読んだだけで用を済ませることが増えている。アプリを開いて画面をポチポチ操作する代わりに、AIエージェントに「来週の土曜、2人で入れる店を探して予約しておいて」と目的だけ伝えることも、もう現実になっている。それが当たり前になる日も、そう遠くないのかもしれない。

比喩に戻せば、道の途中に気の利いた案内所ができて、訪問者はそこで用件を済ませて帰っていく、という状況である。家は建て放題になったのに、玄関まで来る人がいない。もう少し正確に言うと、ソフトウェアはAIから呼び出される部品として使われ、ユーザとの接点はAIの側に集まっていくかもしれない、ということだ。誰でも作れるようになった頃には、そもそも人が個別のアプリを直接使わなくなっている。そんな皮肉な未来も、ありえなくはない。

もちろん、これは可能性の話に過ぎない。人は自分の手で触れる道具を好み続けるかもしれないし、AIが案内してくれるおかげで、小さなツールがむしろ見つけられやすくなる可能性もある。どちらに転ぶのか、僕には判らない。

ただ、AIが作る自由を大きく広げたことは確かだとしても、届ける自由まで保証してくれるわけではない。自由のボトルネックは消えたのではなく、別の場所へ移っただけなのかもしれない。

「誰でもできる」の先にあるもの

作り手が増えても、人間の時間と注意力はほとんど増えない。読者の1日も、視聴者の1日も、24時間のままだ。その結果、より多くの人が限られた注目を奪い合い、注目を集めるために、またプラットフォームの仕組みに適応していく。検索されやすいタイトルを付け、クリックされやすいサムネイルを作り、拡散されやすい言葉を選ぶ。

いつの間にか、好きなことをしていたはずが、アルゴリズムが好むものを作っている。好きなことと市場の需要がたまたま一致している、幸運な人もいるにはいるのだが。

それでも、「好きなことで生きていく」という言葉の難しさはここにある。好きなことを仕事にした瞬間、その仕事は誰かに評価され、お金を払ってもらう必要が生まれる。好きなことを仕事にする自由と、好きなことだけをする自由は、似ているようでまるで違うのだ。

自由とはなんなのか

そもそも自由とはなんなのだろう。会社に勤めないことか、十分なお金を持つことか。どれも自由の一部ではあるだろう。

しかし、誰にも依存せずに生きることは、おそらくできない。会社員は会社に、フリーランスは取引先に、ブロガーは検索エンジンに、YouTuberはプラットフォームと視聴者に依存する。起業家とて顧客からは逃れられないし、資産で暮らす人は市場に依存する。使いきれないほどの資産があれば話は別だが、そこまでたどり着ける人はそう多くない。どんな生き方を選んでも、たいていはどこかで土地を借りることになるのだ。

そう考えると、自由とは依存をなくすことではなく、依存する先を自分で選べることなのかもしれない。1つの収入源を失っても生活が破綻しないこと。今の仕事が嫌になったら、別の仕事を選べること。好きだったことが好きでなくなったとき、それをやめられること。

自由とは、制約がない状態ではなく、選択肢を失わない状態なのだろう。

10年後

今、プロブロガーになりたいという人は、以前ほど見かけなくなった。それでもブログは残っているし、あの頃のブロガーたちは、それぞれ別の場所でそれぞれの人生を送っている。

かつて彼らは「好きなことで生きていく」と言っていた。当時の僕は、その言葉を「好きな仕事をずっと続けること」だと受け取っていた気がする。でも今は、少し違う解釈をしている。好きなことで生きていくとは、好きなことを一生続けるという宣言ではない。好きなことが変わっても、自分の人生を選び直せるということなのだ。

あの頃彼らが求めていた自由は、ブログそのものではなかったはずだ。ブログは手段に過ぎず、その手段は時代とともに移り変わる。ブログ、YouTube、FIRE、そしてAI。あるいは、まだ名前のないなにか。新しい道具や考え方が現れるたびに、「これで個人が自由になれる」と語られる。自由を与えてくれるものに依存しながら、そこから自由になろうとする。インターネットで生きるとは、たぶんそういうことなのだろう。

以上、昔のプロブロガーたちは今なにをしているのか、という些細な疑問から、ずいぶん遠くまで考えてしまった。

AIを使った個人開発で生計を立てている人が、実際にどれほどいるのかは分からない。ただ、10年前のプロブロガーがそうだったように、そうした生き方を選ぶ人は、これから増えていくのかもしれない。では、そうしてAIでアプリを作り始める人たちは、10年後になにをしているのだろうか。自分のプロダクトで生活しているかもしれないし、会社を経営しているかもしれない。まったく別の仕事をしていて、AIで個人開発をしていたことなど、半ば忘れているかもしれない。

僕自身も、たぶん例外ではない。10年後も今のアプリをちまちま作り続けているかもしれないし、まったく違うことをしているかもしれない。なにしろ10年前の僕は、働きたくなくてプロブロガーの記事を読みふけっていた大学生だったのだ。10年という時間は、人の行き先を予想するには少々長すぎる。

別のことをしていたとしても、それを失敗と呼ぶ必要は、たぶんない。あのとき作ったなにかが、その後の人生に選択肢を1つでも増やしたのなら、それで十分だったのではないか。

現に僕は、プロブロガーにはならなかった。ただ、アフィリエイトをきっかけにプログラミングを覚え、気づけばプログラマーとして働いている。働きたくなかった大学生が、である。あの頃の憧れは、思っていたのとはずいぶん違う形で、ちゃんと選択肢を1つ増やしてくれたのだ。

10年後、答え合わせができる日を、少し楽しみにしている。